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大阪地方裁判所 平成3年(ワ)8782号 判決

原告

甲野澄男

甲野康祐

右法定代理人親権者父

甲野澄男

原告二名訴訟代理人弁護士

比嘉廉丈

比嘉邦子

被告

林章子

社会福祉法人恩賜財団済生会

右代表者理事

南喜代春

被告二名訴訟代理人弁護士

米田泰邦

主文

一  被告らは、各原告に対し、連帯して金一一五万円及びこれに対する平成二年二月一八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用はこれを一〇分し、その九を原告らの、その他を被告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは、各原告に対し、連帯して金三九八四万六三一三円及びこれに対する平成二年二月一八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者等

原告甲野澄男(以下「原告澄男」という。)は、訴外亡甲野京子(以下「京子」という。)の夫であり、原告甲野康祐(以下「原告康祐」という。)は、原告澄男と京子との間の子である。

被告社会福祉法人恩賜財団済生会(以下「被告法人」という。)は、社会福祉事業を目的とする社会福祉法人であり、大阪府済生会茨木病院(以下「茨木病院」という。)を経営している。被告林章子(以下「被告林」という。)及び訴外曽根春男(以下「曽根」という。)は、いずれも、後記医療事故の当時、被告法人に雇用され、茨木病院に勤務していた医師である。

2  本件医療事故

(一) 京子は、平成元年六月二七日以降、懐妊のため茨木病院に通院していたが、平成二年二月八日、茨木病院に入院し、同日午後四時二六分、原告康祐を出産した(なお、以下の時・分の記載は、特に断りのない限り、すべて平成二年二月八日におけるものである。)。

(二) 京子は、分娩後、大量に出血し、午後四時五五分、収縮期一〇〇・拡張期六四であった血圧が、午後五時一五分には収縮期四〇に低下した。このときに行われた血液検査の結果は、ヘモグロビン9.9グラム/デシリットル、ヘマトクリット30.1パーセントであった。また、脈拍は、午後五時一七分、毎分一二〇回であった。

京子は、午後四時五五分から午後五時一五分までの間、顔色不良の状態で、「しんどい。」と訴えていた。京子は、午後五時一五分、出血性のショック状態に陥った。

もっとも、診療録によれば、京子の出血量は、分娩時から午後四時五五分までが五〇〇ミリリットル、午後四時五五分から午後五時一五分までが三〇〇ミリリットル、午後五時一五分から午後五時三八分まで七〇〇ミリリットルであったと記載されている。

しかし、京子は、収縮期血圧が午後四時五五分には一〇〇であったのに、午後五時一五分には四〇となり、重篤なショック状態に陥っているのである。

人体の循環血液量は、一般に、体重の約一三分の一であるが、妊婦の場合は、妊娠末期に二五ないし三五パーセント程度増加する。京子の非妊娠時の体重は少なくとも四〇キログラム程度であるから、本件当時の京子の循環血液量は、三八〇〇ないし四一〇〇ミリリットルであったと推認できる。

そして、出血による重篤なショック状態は、人体の循環血液量の三五ないし四五パーセントが失われることによって生ずるから、京子の場合、一三〇〇ないし一八〇〇ミリリットルの出血がなければ、収縮期血圧四〇といった重篤なショック状態は生じないはずである。

したがって、診療録の出血量の記載は正確でなく、京子は、分娩後、午後五時一五分ころまでに、一三〇〇ないし一八〇〇ミリリットルの出血をしていたのである。

(三) 被告林は、午後五時一五分、京子に対し五パーセントのブドウ糖液五〇〇ミリリットルを注入するとともに、看護婦に対し輸血用血液を用意するように指示し、また、午後五時一五分以降京子に対し毎分五リットルの酸素マスクによる酸素吸入措置を行った。

(四) 京子の血圧は、午後五時一五分以降、収縮期七〇以下の状態が継続し、その出血も継続した。

(五) 被告林は、看護婦に対し、午後五時四〇分、薬局から輸血用血液を受領させ、交差適合試験(クロスマッチ)を開始した。

(六) 曽根は、京子に対し、午後五時五五分、ヘスパンダー(代用血漿剤の一種)五〇〇ミリリットルの点滴を開始した。

(七) 被告林は、午後六時二五分になって、ようやく輸血を開始した。

京子の収縮期血圧は、このころ三二ないし三六であり、その出血量は、二一〇〇ミリリットルないし二六〇〇ミリリットルにも達していた。

(八) 被告林は、京子に対し、午後八時一五分、気道の確保及び挿管の処置を行った。

3  京子の死亡

京子は、平成二年二月一七日午後四時一五分ころ、死亡した。

その死因は、直接には播種性血管内血液凝固症候群(以下「DIC」という。)による心不全であるが、右DICは、後産期の大量の弛緩性出血によって生じたものである(子宮内壁、特に胎盤付着部には、大きな血管が開口していることから、分娩後に出血が生じるが、右血管は、子宮自体の収縮によって圧迫され、止血すべきところ、子宮が分娩後も充分に収縮しないときは右出血が止まらない。これを弛緩性出血という。)。

4  被告林の過失

(一) 気道確保及び酸素吸入措置の懈怠

京子は、午後五時一五分には出血性の重篤なショック状態にあり、しかもその血圧は、収縮期七〇以下の状態が継続していた。したがって、被告林としては、主要な臓器への酸素供給を維持するため、速やかに気道を確保し、挿管法により酸素を投与すべき注意義務があるのに、被告林は、これを怠り、酸素マスクによる投与を試みたに止まった。

被告林が気道確保及び挿管を行ったのは、午後八時一五分になってからのことである。

(二) 輸液量の不足と種類の不適切

(1) 輸液量の不足

京子は、前記のとおり、出血性のショックの状態にあったから、被告林としては、まず、循環血液減少を補うために出血量と同量の輸液を急速に行い、その後も、中心静脈圧を参考にして出血量の二倍程度まで輸液して循環血液量を維持する必要があった。

すなわち、京子には、前記のとおり、午後五時一五分までには一三〇〇ないし一八〇〇ミリリットルの出血があり、また、午後五時四三分までにさらに八〇〇ミリリットルの出血があったから、これを合計すると、午後五時四三分まで少なくとも二一〇〇ミリリットルの出血があった。したがって、被告林としては、京子に対し、少なくとも出血量と同量の二一〇〇ミリリットルの輸液を行う注意義務があったのにこれを怠り、午後五時一五分に五〇〇ミリリットルの輸液を行ったのみで、午後五時五五分になってヘスパンダーの点滴を開始するまで輸液を追加しなかった。

この結果、京子に対する輸液は、少なくとも一六〇〇ミリリットル不足していた。

(2) 輸液等の種類の不適切

大量出血があった場合、血管内圧が低下し、組織間液が血管内に流入するために、血液量のみならず間質液の量も減少して、抹消の組織への灌流を低下させることになる。出血性ショックの場合における輸液は、血液量の補充とともに、間質液を含めた細胞外液の補充を目的としてなされるから、この場合の輸液は、細胞外液と同様に、電解質を含んだものである必要がある。

また、大量出血によるショックが重篤であるにもかかわらず輸血開始が遅れる場合には、循環血液量を確保するために、代用血漿製剤を投与する必要がある。

本件では、京子は、午後五時一五分までに、一三〇〇ないし一八〇〇ミリリットルの出血があり、出血性のショック状態にあったのだから、被告林としては、早期に出血量と同量の電解質を含んだ乳酸加リンゲル液を補充し、その後は代用血漿剤(ヘスパンダー、プラズマネート等)を、さらにショック状態を治療するためにソルコーテフ(副腎皮質ホルモンの一種。ショック一般に用いられる。)を投与すべき注意義務があったのに、被告林は、午後五時一五分から五時五五分までの間、電解質を含まず、出血性のショック状態の患者に対しては有効でないブドウ糖液五〇〇ミリリットルを投与したのみであって、乳酸加リンゲル液、代用血漿剤、ソルコーテフを投与せず、右注意義務に違反した。

(三) 輸血の開始時期の遅れ

(1) 輸血用血液の指示の時期について

分娩時の出血量が五〇〇ミリリットルを越えた場合、異常出血とされているが、本件では、午後四時五五分には測定できた出血量だけでも五〇〇ミリリットルに達し、その後も出血が持続していたことに照らせば、被告林には、午後四時五五分ころには、輸血を指示するか、または、血圧モニターを設置し、血圧、脈拍等を頻回測定して京子の容態を常に把握し、必要に応じて速やかに輸血を指示すべき注意義務があるにもかかわらず、午後五時一五分に至って初めて輸血を指示した。

(2) 輸血の開始について

午後五時一五分、京子の収縮期血圧は四〇となり、重度の出血性ショック状態にあったのであるから、被告林には可及的速やかに輸血を開始する注意義務があった。

輸血開始前には、交差適合試験を行うのが原則であるが、右試験を省略して輸血を開始したことにより血液の異型輸血事故が生じる危険性と、右試験の実施に要した時間だけ輸血が遅れたことにより京子の症状が悪化する危険性とを比較した場合、後者の危険性の方がはるかに大きいのであるから、本件では、交差適合試験を省略するか、あるいは、試験にそれほど時間を要しない生理食塩水法による交差適合試験をするにとどめ、速やかに輸血を開始すべきであった。

しかし、被告林は、午後五時一五分に輸血用血液の供給について指示後、午後五時四〇分に薬局から右血液を受領し、さらに交差適合試験を実施し、京子に対し午後六時二五分に至って初めて輸血を開始したのであって、被告林は、可及的速やかに輸血をする注意義務に違反した。

5  被告らの責任

被告林は、右過失に基づき、民法七〇九条の責任を負う。

被告法人は、被告林の使用者であり、被告林の右行為は、被告法人の事業の執行についてなされたものであるから、被告法人は、同法七一五条一項の責任を負う。

6  因果関係及び損害

(一) 被告林が前記各注意義務を尽くさなかったため、結果的に京子にDICを誘発させたのであって、右各注意義務を尽くされれば京子は救命されていた。

(二) 因果関係の割合的認定

仮に京子の死因が羊水塞栓症であって、被告林の過失行為と京子の死亡との間に全面的な因果関係が認められないとしても、羊水塞栓症の場合、少なくとも二〇パーセントの救命可能性はあったのであるから、いわゆる因果関係の割合的認定の理論に基づき、二〇パーセントの範囲で相当因果関係の存在が認められるべきである。

(三) 原告らは、次のとおり損害を被った。

(1) 京子に生じた損害

合計五二六九万二六二七円

① 逸失利益三二六九万二六二七円

京子は、死亡当時三八歳で、平成二年度の賃金センサスによれば、同年齢の産業計・企業規模計・学歴計女子労働者の年収は三〇九万〇八〇〇円であるところ、就労可能年数二九年(新ホフマン係数17.629)、生活費控除を四割として計算すると、逸失利益は、次のとおり算出される(一円未満切り捨て)。

309万0800円×17.629×(1−0.4)=3269万2627円

② 死亡による慰藉料二〇〇〇万円

(2) 原告らに生じた損害

近親者慰藉料

各原告について一〇〇〇万円

(3) 相続

各原告は、京子の死亡により、(1)記載の損害賠償請求権をそれぞれ二分の一ずつの割合で相続した(一円未満切り捨て)。

(小計)各原告につき

三六三四万六三一三円

7  適切な治療を受ける権利の侵害

仮に、被告林の過失行為と京子の死亡との間に相当因果関係が認められないとしても、被告林は、京子に対し、適切な治療を施さなかったことにより、京子の適切に治療を受ける権利を侵害し、この結果、京子ないし各原告は、6(三)(1)②(京子自身の慰藉料)及び(2)(近親者慰藉料)記載の損害を被ったのであるから、各原告は、それぞれ二〇〇〇万円の損害賠償請求権を取得した(京子自身の慰藉料二〇〇〇万円×法定相続分二分の一+各原告の近親者慰藉料一〇〇〇万円)。

8  弁護士費用

原告らは、原告ら代理人に対し、本件訴訟の遂行を依頼し、弁護士費用としてそれぞれ三五〇万円(合計七〇〇万円)を支払うことを約した。

9  よって、各原告は、被告らに対し、連帯して、不法行為による損害賠償請求として、金三九八四万六三一三円及びこれに対する不法行為の日(京子が死亡した日)の翌日である平成二年二月一八日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1(当事者等)の事実は認める。

2(一)  同2(一)(原告康祐を出産したこと)の事実は認める。

(二)  (二)(出産後の大量出血)の事実のうち、出血があったこと、血圧が、午後四時四四分に収縮期一〇〇・拡張期六四、午後五時一五分に収縮期四〇であったこと、午後五時一五分に行われた血液検査の結果、ヘモグロビン9.9グラム/デシリットル、ヘマトクリット30.1パーセントであったこと、脈拍は、午後五時一七分、毎分一二〇回であったこと及び診療録に記載されていた京子の出血量は認め、その余は否認する。

京子について、分娩後、少量の出血が継続していたが、午後四時五五分から午後五時一五分までの間の出血量は合計八〇〇ミリリットルであり、さらに、右八〇〇ミリリットルには羊水も含まれていた。右出血量からは、京子が、午後五時一五分、出血性のショック状態に陥っていたとは考えられない。

(三)  (三)(被告林の措置)、(四)(出血の継続)の各事実は認める。

(四)  (五)(交差適合試験の実施)の事実のうち、薬局から輸血用血液を受領したこと、交差適合試験を実施したことは認め、その余は否認する。

被告林から指示を受けた看護婦は、午後五時四〇分以前に、薬局から輸血用血液を受領した。

(五)  (六)(点滴の開始)の事実は認める。

(六)  (七)(輸血の開始)の事実のうち、被告林が午後六時二五分に輸血を開始したことは認め、その余は否認する。

(七)  (八)の事実は認める。

3  同3(京子の死亡)の事実のうち、京子が、原告主張の日時に死亡したことは認め、その余は否認する。

京子の死因は、原告澄男らから剖検を拒否されたため、必ずしも明確でないが、羊水塞栓症(分娩中に、羊水成分が母体血液中に流入し、母体に急性ショックや出血などの激症を生じさせる症状をいう。)であることが十分に考えられる。

4  同4(被告林の過失)の主張はいずれも争う。

(一) 気道確保及び酸素吸入措置について

京子は午後五時一五分の時点において軽度のショック状態であり、被告林や曽根らが、当初、挿管による気道確保をしなかったのは、自発呼吸が継続していたことから、用手気道を確保し(患者を頭部後屈及び下顎挙上の状態にする。)、酸素吸入をすれば足りると判断したためであり、後に挿管による気道確保を行ったのは、その時点で初めて著しい呼吸抑制が生じたためであって、いずれも適正な酸素の吸入措置であった。

(二) 輸血の開始時期について

(1) 出血量は、午後五時一五分の時点では、羊水成分も含め合計八〇〇ミリリットルであり、この時点で、血液確保をする特別な緊急性はなかった。

また、多くの産後出血例において、輸血なしに対応できていること、本件において、被告林や曽根は、京子の救命のためにより重要な止血措置に没頭していたことに照らしても、輸血開始の時期が遅いとすることはできないというべきである。

したがって、午後五時一五分時点における輸血手配の指示は、適正な時期に行われたというべきである。

(2) また、交差適合試験は、輸血を実施するために必要な検査である。

午後五時一五分ころ、血液検査と交差適合試験のための採血が実施され、看護婦が薬局から濃厚赤血球パックを受領し、京子から採取した血液とともに検査室へ持参し、検査技師は、直ちに、血液検査と交差適合試験(生理食塩水法、アルブミン法、クームス法)、抗体スクリーニング検査を実施したのであって、被告林らの措置に過失はない。

5  同5(被告らの責任)の主張は争う。

6  同6(因果関係及び損害)の事実はいずれも否認する。

京子の死因として考えられる羊水塞栓症は、死亡率が八〇ないし一〇〇パーセントのものであって、仮に、被告らの輸液や輸血の処置に問題があり、適正な輸血措置が行われたとしても、京子の死亡は不可避なものであり、過失行為と京子の死亡との因果関係はない。また、本件は因果関係の割合的認定になじむ事案でない。

7  同7(適切な治療を受ける権利の侵害)の主張は争う。

被告林らは、京子の救命のために適切な治療を行っている。

第三  証拠

本件訴訟記録中の書証目録欄及び証人等目録欄記載のとおりであるから、これを引用する。

理由

一  請求原因1(当事者等)の事実は当事者間に争いがない。

二  治療経過及び京子の死亡等について(請求原因2、3)

1  請求原因2(一)(原告康祐を出産したこと)の各事実、(二)(出産後の大量出血)の事実のうち、京子に出血があったこと、血圧が、午後四時五五分に収縮期一〇〇・拡張期六四、午後五時一五分に収縮期四〇であったこと、血液検査の結果、ヘモグロビン9.9グラム/デシリットル、ヘマトクリット30.1パーセントであったこと、脈拍は、午後五時一七分、毎分一二〇回であったこと、(三)(被告林の措置)の事実、(四)(出血の継続)の事実、(五)(交差適合試験の実施)の事実のうち、薬局から輸血血液を受領したこと、交差適合試験を実施したこと、(六)(点滴の開始)の事実、(七)(輸血の開始)の事実のうち、被告林が午後六時二五分に輸血を開始したこと、請求原因3(京子の死亡)の事実のうち、京子が平成二年二月一七日午後四時一五分ころ死亡したことは、当事者間に争いがない。

2  右争いのない事実に加え、証拠(乙第一、第二号証、第九号証の二・三、第二〇号証、鑑定人鈴木正彦の鑑定結果(以下「鈴木鑑定という。)、証人鈴木正彦の証言(以下「鈴木証言」という。)、証人曽根の証言、被告林の本人尋問の結果)及び弁論の全趣旨を総合すると、次の各事実が認められる。

(一)  京子は、平成元年六月二七日以降、懐妊のため茨木病院に通院していた。京子は、妊娠中二度の切迫流産となったが、回復した。京子の平成元年八月一日から平成二年二月六日までの血圧は、平均して収縮期一〇〇強(右期間の最高が一一六、最低が九二である。)、拡張期六〇強(右期間の最高が八二、最低が五〇である。)であった。

京子は、平成二年二月八日午前五時三〇分ころ陣痛が生じたので、午前五時四五分ころ、分娩のため同病院に入院した。

京子は、当時三八歳の初産婦であり、被告林は、その分娩を主治医として担当した。

(二)  京子は、午前八時二五分ころ、分娩室に入室したが、軟産道が強靭で、陣痛は微弱であった。京子は、午前九時二〇分、子宮口が五センチメートルに開大し、陣痛の間隔は二分ないし三分となったが、陣痛は微弱であり、午前一一時、同一一時三〇分、午後一時に少量の出血があった。

午後一時五〇分、京子の子宮口は7センチメートルないし7.5センチメートルに開大し、子宮先進部がやや下降した。

被告林は、午後二時三四分、京子の人口破膜を指示し、京子は破水したが、その際少量の出血があった。午後二時五〇分、被告林の指示で、京子の血管を確保するためその左前腕部に点滴の措置がなされ(第一ルート)、五パーセントブドウ糖液五〇〇ミリリットルの輸液が開始された。

その間、胎児の心音は、午後二時三六分、四五分、午後三時一〇分、四〇分ころの四回にわたって低下した。

京子は、午後三時四二分、被告林の指示でアトニンO(分娩促進用の子宮収縮剤)一単位が投与され、午後三時五五分、陣痛が強くなり、少量の出血があった。午後四時二分、京子の子宮口は全開大となったが、再び陣痛が微弱になり、午後四時一〇分、被告林は、前記輸液にアトニンO一アンプルを加えた。被告林は、さらに午後四時一五分、吸引分娩を開始し、クリステレル法をも施行したが効果がなく、午後四時一九分ころ肩が痛くなったので、曽根に対し応援を求め、曽根は、午後四時二一分、分娩室に到着した。

曽根は、直ちに京子の会陰を側切開し、午後四時二六分、吸引分娩を施行して、胎児(原告康祐)を娩出した。原告康祐は第一度仮死状態で出生したので、曽根は、直ちに蘇生措置を施し、蘇生した原告康祐を連れて分娩室を退出した。

(三)  京子は、分娩後も、出血が継続した。

被告林は、京子に対し、午後四時三六分、前記輸液にアドナ(止血剤)一アンプルを加え、また、午後四時三八分、メテルギン(子宮収縮剤)一アンプルを静脈注射し、子宮底マッサージを行い、アイスノンを貼用した。

ところが、子宮底マッサージによっても京子の胎盤が排出されず、出血量が多くなってきたため、被告林は、エホチール(塩酸エチレフリン製剤。昇圧剤)注射をした後、午後四時五五分、京子の胎盤を用手剥離させた。

分娩時から午後四時五五分までの京子の出血量は約五〇〇ミリリットル、京子の午後四時五五分の血圧は、収縮期一〇〇・拡張期六四であった。被告林は、午後四時五九分から午後五時一五分にかけて、膣壁裂傷部と会陰側切開部を縫合した。午後四時五五分から午後五時一五分までの京子の出血量は、少なくとも三〇〇ミリリットルであった。

右縫合の際、分娩室にいた茨木病院の職員は、被告林と助産婦の訴外上田であり、他に、看護婦の訴外信濃豊子が種々の作業等のため分娩室に出入りしていた。

なお、京子の出血量は、分娩直後に母体臀部に大きな膿盆(一リットル入り)を置き、その中にたまった血液量をメスシリンダー等により測定し(測定のため膿盆をはずした場合、すぐに続けて別の膿盆を置く。)、これに切開手術及び縫合手術の際に患部の血液を拭ったガーゼについて使用後に増量した重量を加えて算出されており、右方法に格別問題があったとは認められない。

被告林は、午後五時一〇分、京子の血管確保を行った(第二ルート)。

(四)  京子は、午後五時一五分ころ、意識はあったものの、顔色は不良で、嘔気があり、「しんどい。」と訴えており、血圧は、収縮期四〇と著しく低下し、脈拍は、午後五時一七分に毎分一二〇回、午後五時二五分に毎分一五〇回と頻脈の症状を呈し、このころ、重篤なショック状態に陥った。

被告林の供述、証人曽根の証言及び井上欣也の意見書(乙第六号証、以下「井上意見書」という。)は、京子が午後五時一五分の段階では重篤なショック状態に陥っていなかったとし、その理由として、被告林の供述は、京子は同時刻に意識が明確であったことを、証人曽根の証言及び井上意見書は、ショック状態になると腎機能や脳に障害が生じるが、本件の経過では尿量は適正であって腎機能の障害がなく、また、意識が明確であって脳に障害が認められないことをそれぞれ挙げている(以下「被告ら見解」という。)。

ところで、ショック状態とは、何らかの原因で抹消循環(微小循環)が障害された結果、各種臓器や組織(細胞)が低酸素状態になっている状態をいい、臨床像としては、通常、①顔面蒼白、チアノーゼ、四肢冷感、冷汗、意識混濁などを伴い、②収縮期血圧八〇以下、脈拍毎分八〇ないし一〇〇回以上又は毎分四〇回以下となる。もっとも、右の診断基準は、必ずしも全ての医師等から肯認されているものでなく、診断項目の設定の仕方によって異なっている。そして、「産科ショック」(妊産婦がショックに陥ること)の場合、他のショック状態と比較して独特の症状を伴うことがある(鈴木鑑定)。

京子は、遅くとも午後五時一五分には、収縮期血圧が四〇と極端に低下したうえ、頻脈、嘔気、悪心などのショック症状を呈していた。

被告ら見解では、京子の右症状について十分に説明できないし、ショックの程度の重要な指標である血圧及び脈拍について、京子の収縮期血圧が当時四〇にまで低下したことを十分に考慮されているとは言い難い。

したがって、被告ら見解はこれを採用することはできない。

なお、循環血液量が体重の何パーセントであるか、あるいは、循環血液量の何パーセントが失われると重症のショック状態に陥るかについては、固体差があり、また、京子の場合、後述の羊水塞栓症の発症も疑われるから、京子がショック状態に陥ったことから翻って、原告が主張するような一三〇〇ないし一八〇〇ミリリットルの出血があったと推定することはできない。

(五)  被告林は、京子に対し、午後五時一五分、用手気道確保をしたうえ、酸素マスクを装着させ、毎分五リットルの酸素吸入を開始し、血圧モニターを装着した。また、被告林は、第二ルートにおいて、アトニンO五単位を加えた五パーセントのブドウ糖液五〇〇ミリリットルの点滴を開始した。

被告林は、ジモン氏膣鏡を用いて会陰部裂傷の縫合部が止血したか否か確認したところ、裂傷による出血は一応止まっていたが、子宮口から僅かずつ凝固性のない出血が継続し、また、子宮は非常に柔らかく弛緩していた。

林は右出血を弛緩性出血と判断し、出血を止めるため、子宮底のマッサージや冷罨法(子宮底を冷やす方法)を実施するとともに、曽根の応援を依頼した。

被告林は、さらに、輸血用血液(保存血。赤血球濃厚液CRC、凍結血漿FEP五パック)を用意するよう指示した。

(六)  茨木病院では、当日、自宅待機当番の臨床検査技師を病院内に待機させており、午後五時一五分に交差適合試験用に採血したうえ、病棟付きの看護婦が薬局に輸血用血液を手配した。

薬局から看護婦に対しては、午後五時四〇分ころ右輸血用血液の受渡しがなされ、看護婦は右輸血用血液と京子からの採血を、当日の当番として待機していた臨床検査技師に交付し、右技師は直ちに交差適合試験と血液検査を行った。

交差適合試験としては、生理食塩水法(所要時間三分)、アルブミン法(所要時間一七分)、クームス法(所要時間五分)が行われ、これに並行して抗体スクリーニング検査が行われた。右試験は、輸血の開始された午後六時二五分の直前にようやく終了した。

右のように時間を要したのは、交差適合試験の前処理である京子の血液の遠心分離が困難で、加熱、再分離、再々分離を行ったためである。

(七)  一方、被告林は、京子に対し、午後五時一七分、第一ルートにおいて、エホチール二ミリリットルを一〇ミリリットルの生理食塩水で希釈して点滴し、午後五時二五分及び三五分にも希釈したエホチールを点滴した。

(八)  曽根は、午後五時二一分、分娩室に再び入室すると、直ちに、京子の出血状態を確認するために膣鏡をかけ、膣内に入っていた連結ガーゼ(二枚のガーゼを結んだもので、子宮と膣壁を圧迫することによる膣腔内タンポナーデの機能を有するもの)を抜いて出血状態を見ると、子宮の収縮が非常に悪く、出血があり、また、縫合された左側の膣壁裂傷の右側の会陰側切開部からもじわじわと出血している状態であった(京子は午後五時三八分までに更に七〇〇ミリリットル出血した。)。

曽根は、出血を止めるために、子宮双手圧迫法(左手を膣内に入れ、右手を子宮腹壁上から子宮の後ろ側に入れて、両手で子宮を圧迫する方法)や大動脈圧迫法(へその直上の部位を、脊柱にほぼ垂直に圧迫するような形で大動脈を圧迫し、子宮の血流を減少させる方法)を実施し、既に通常の方法で縫合してある膣壁裂傷と会陰切開部位に、さらに細かい縫合を追加した。

縫合作業は、午後五時五〇分には終了したが、出血は、少量ずつ継続した。そこで、曽根は、子宮及び右縫合部位を圧迫して止血するため、ホルムガーゼ一メートル五〇センチメートルを膣腔内に強圧タンポナーデとして挿入し、また、バルーンカテーテルを挿入して、京子の尿量測定を開始した。

他方、被告林は、曽根と入れ替わりに分娩室を出て、京子の家族に対し、京子に八〇〇ミリリットルの出血が認められること、子宮の収縮が悪いこと、血圧が低いこと、止血のためには新鮮血による輸血がよいことなどを説明し、京子の家族は、輸血用血液の提供者を集めることになった。

被告林は、右説明後、分娩室に戻り、京子に対し、大動脈圧迫法や子宮マッサージ等を実施した。

京子は、午後五時四三分には呼名反応があったが(呼名反応とは、医師等が患者に対し名前を呼ぶと、患者が身振り等でこれに応対することをいう。)、その後、少しずつ意識が薄れていった。

(九)  被告林は、前記のとおり、第一ルート及び第二ルートから五パーセントのブドウ糖液の点滴を実施していたが、曽根は、午後五時五五分、そのうちの第二ルートの輸液をブドウ糖液からヘスパンダー五〇〇ミリリットルに変え、これにアトニンO一アンプルとメテルギン一アンプルを加えた点滴を開始した。

被告林は、京子に対し、午後六時一〇分、プロスタルモンF(子宮収縮剤)を子宮筋注射した。また、午後六時二〇分、第二ルートの輸液にソルコーテフ一アンプルとアトニンO一アンプルを加え、午後六時二三分にはプロスタルモンFの子宮筋注射を追加し、第一ルートから五パーセントブドウ糖液にFOY(酸素阻害剤。急性心不全・DIC予防用薬剤)一〇バイヤルを追加し注入し、第二ルートにアトニンO一アンプルとメテルギン一アンプルを追加して点滴した。

京子の収縮期血圧は、午後六時一〇分に三二、午後六時一八分に三〇であった。

午後六時一八分に訴外藤江医師、午後六時二七分に同北医師が京子の治療に加わった。

(一〇)  被告林らは、京子に対し、午後六時二五分になって、第二ルートから前記輸血用血液による輸血を開始した。

京子は、右時点でも、出血が継続しており、午後六時四五分には、医師等の呼名に対し何とか応じていたが、指示に応じることはなかった。午後六時四五分の京子の尿量は五〇ミリリットルであった。

被告林らは、京子に対し、午後六時四五分、ユエキンキーブ二〇〇ミリリットルとイノバン(塩酸ドーパミン。電解質補液)二アンプル、午後六時五〇分にIVH(ポタコールR五〇〇ミリリットル。電解質)を投与した。

京子の収縮期血圧は、午後七時二〇分に三〇、午後七時四五分に五〇であった。脈拍は、午後七時四五分に毎分一二六回、午後七時五〇分に毎分一二四回であり、呼吸数は、午後七時五〇分に頻浅の状態であった。

午後七時三〇分、京子は、呼名反応をせず、ぼんやりと目を開け、顔色不良の状態で、チアノーゼが強く現われた。

被告林らは、京子に対し、午後七時四五分、CVP(中心静脈圧)測定装置を装着した。

午後七時五〇分、少量ずつ出血が継続していた。

午後八時一五分、挿管による気道確保がされた。

午後八時二〇分、京子の心臓が一旦停止した。被告林らは、京子に対し、心臓マッサージを施し、午後八時五〇分に右心停止の状態が解消され、午後八時四〇分から新鮮血による輸血が開始された。

京子は、なお、少量ずつの出血を継続するので、被告林らは京子の子宮を摘出して止するため、午後一〇時ころから子宮の摘出手術をしたが、京子はその後も意識を回復しなかった。

(一一)  京子は、茨木病院において、平成二年二月一五日、脳死の疑いがもたれ、同月一六日午前一一時に脳死と判定されて、同月一七日午後四時一五分ころには、心臓が停止して死亡した。

三  被告らの過失について

1  気道確保及び酸素吸入措置について

前記認定のとおり、京子は、午後五時一五分、重篤なショック状態に陥ったものの、自発的呼吸を続けていたところ、午後八時一五分ころ、著しい呼吸抑制が生じた。

これに対して、被告林らは、午後五時一五分には用手気道確保のうえ、酸素マスクによる酸素吸入を開始し、午後八時一五分には、挿管による気道確保をしている。右各措置は、京子の症状に即したものと考えられ、右各措置について格別不適切な点は認められない(鈴木証言)。

したがって、被告林らに右措置に関する過失は認められない。

2  輸液の量と種類について

甲第二号証、鈴木鑑定及び鈴木証言によれば、次の各事実が認められる。

(一)  出血性ショックやアナフィラキシーショック(後述の羊水塞栓症の際の急性ショックはこれに含まれる。)などのショックの際の緊急輸液には、一般に乳酸加リンゲル液の投与により電解質を補充することを要するとされている。

そして、分娩時の異常出血とは、分娩時又は分娩後二時間以内の出血量が五〇〇ミリリットル以上の場合をいい、この場合、一般に分娩時には五パーセントのブドウ糖液などで点滴により血管を確保しておく必要がああるが、出血の予兆が認められた場合には、乳酸加リンゲル→低分子デキストラン→血漿製剤→輸血へと遅滞なく切替えることが必要である(ただし、輸血措置が間に合えば途中を省略してよい。)とされている。この措置を遅らせるとDICや出血死をもたらす危険があり、日本母性保護産婦人科医会では分娩時出血量が一〇〇〇ミリリットルに達しようとするころには、輸血が即時に実施できるように準備して適切に輸血を行うことが望ましいとされている(この基準を以下「日母基準」という。)。

そして、輸液や輸血の量は出血量に合わせて補充すべきものとされている。

(二) ところで、京子は、午後五時一五分までに八〇〇ミリリットルを出血し、分娩時の異常出血の状態にあり、その後の被告林らが各種の止血措置を講じたにもかかわらず、午後五時三八分までにさらに七〇〇ミリリットルと出血が急増し、遅くとも午後五時三〇分には出血量一〇〇〇ミリリットルを越えていた。

したがって、被告林らとしては、右の時点で早急に輸血を開始すべきであり、仮に、直ちに輸血が開始できないときは、輸液を乳酸加リンゲル等に切り替え、その量も出血量に見合った量に補充すべき義務があったというべきである。

ところで、被告林らは、京子に対し、午後五時一五分から午後五時五五分までの間、五パーセントのブドウ糖液五〇〇ミリリットルを投与したのみで、午後五時五五分に至ってようやくヘスパンダー(血漿製剤)五〇〇ミリリットルを投与しているのであるから、乳酸加リンゲル等への切り替えが遅れ、また、出血量に見合った輸液の補充がなされておらず、被告林らには前記注意義務を尽くさなかった過失が認められる。

3  輸血の時期について

(一) 輸血等を開始すべき時期について

前記日母基準は、分娩時出血量が一〇〇〇ミリリットルに達しようとするころには早急に輸血を開始するのが望ましいとし、鈴木鑑定及び鈴木証言は、これをふまえ、本件において、遅くとも、京子の出血量が一〇〇〇ミリリットルを超えた時点である午後五時三〇分には輸血を開始するのが望ましい、すなわち、臨床的には一〇〇〇ミリリットル以上の出血をした場合でも必ずしも母体の死亡に直結するものでなく、一般的に右の量の出血があったからといって直ちに輸血をすることが不可欠となるわけではないが、少しでも母体の症状が悪化すれば何時でも必要に応じて輸血できるように準備すべきであるとする。前記のとおり、京子は、午後五時一五分には重篤なショック状態に陥り、止血の措置が講じられたにもかかわらず、出血は持続し、午後五時三〇分には少なくとも一〇〇〇ミリリットルを超える状態となり、止血措置も功を奏さず、なお、出血が増大する傾向にあったから、被告林は、遅くとも右時点で京子に対し、輸血を行うべき必要があった。

これに対し、井上意見書は、輸液の種類と量が問題となったり、輸血の必要が生じたのは、輸液に優先して実施された止血措置にもかかわらず、出血が増量した午後五時五五分になってからであるとし、また、平成四年一〇月から平成五年九月までに茨木病院で分娩時出血量が一五〇〇ミリリットル以上になっても輸血をしなかった症例が四例あるとする症例報告(乙第七号証)がある。

しかし、乙第七号証の症例は、妊婦の年齢や分娩経験、血圧、脈拍等が京子のそれと異なり、右症例があるからといって本件において京子の出血量が一五〇〇ミリリットル以上になっても輸血の必要がなかったことになるわけではない。

また、前記認定のとおり、午後五時一五分時点では出血量が八〇〇ミリリットルであったが、その後も出血が持続し、午後五時三八分の時点で京子の出血量は合計一五〇〇ミリリットルとなり、さらに、その後も出血が持続していたから、午後五時五五分にはさらに相当の出血量があり、京子は危険な状態に陥っていたことは容易に推認しうるところである。

右のような出血の状況からすれば、午後五時五五分になって輸血を開始すれば足りるような状態でないことは明らかである。

井上意見は採用することはできない。

(二) 輸血指示の時期について

輸血を実施するに当たっては、異型輸血等の事故防止のために、事前に交差適合試験を実施することが必要である。右交差適合試験に要する時間は四〇分ないし五〇分であり、薬局における輸血用血液の準備、交差適合試験の準備などを考慮すると、輸血の手配をしてから実際に輸血が開始されるまでには一時間程度の時間を要する(鈴木鑑定及び鈴木証言)。したがって、血液の手配は、右準備時間を考慮してなされる必要がある。

京子は、高年初産婦であり、少量ではあるが、分娩までに五回の出血をみている。娩出後、京子は出血し、出血量は午後四時五五分の時点で、分娩時の異常出血の目安とされる五〇〇ミリリットル(三〇〇ミリリットルを超えると異常出血とする考えもある。甲第四号証)に達し、なお、出血が持続していたこと、被告林らは、分娩後、京子に対して、アドナ、エホチール、メテルギンが投与され、子宮底マッサージが行われているが、これは、京子に出血を中心とする異常な兆候が発現していることを示唆するものであること(鈴木鑑定)、輸血の準備に一時間程度を要することからすれば、被告林は、遅くとも午後四時五五分の段階では、京子の出血が増大し、緊急な事態が発生することも予測して、輸血用血液を手配し、交差適合試験を実施するなどして、京子の症状の変化に対応して適切に輸血がなされるように準備すべき義務があったと認めるのが相当である。

被告林が輸血用血液を手配したのは午後五時一五分ころであり、血液の手配が遅れた点に過失があるといわざるを得ない。

さらに、右血液の手配がなされてから実際に輸血が行われるまでに一時間一〇分を要している。交差適合試験そのものには四〇分程度の時間を要するのみであることと対比すると、輸血用血液の手配から輸血の実施まで時間がかかりすぎており、この点についても被告林らに不手際があったことは明らかである。

また、輸血の実施が困難な場合、これに代わる輸液の実施について被告林に過失があったことは前記のとおりである。

なお、鈴木鑑定では、本件において、三〇分ないし一時間の輸血の遅れがあったとされている。

四  被告林の過失と京子の死亡との間の因果関係について

1  京子の症状について

京子は、午後五時一五分、会陰側切開部等を縫合しても少量ずつ凝固性のない出血が継続しており、重篤なショック状態に陥ったのであるから、遅くともこの時点で京子にDICが生じていたものとを認められる。

また、京子は、右時点で、収縮期血圧四〇と著しい血圧の低下がみられ、顔色は悪く、悪心が生じている。その後、脈拍は午後五時一七分に毎分一二〇回、午後五時二五分には毎分一五〇回と頻脈の症状を示し、さらに、午後六時四五分には意識が薄れ、午後七時三〇分には意識を喪失し、顔色不良になり、チアノーゼが発現したうえ、午後八時二〇分には心臓が一旦停止した。

2  京子の死因について

(一)  鈴木鑑定及び鈴木証言によると、次の各事実が認められる。

(1) 京子に重篤なショック状態を来たし、DICを生じさせた原因として、本件の経過に照らし一応考えられるのは、軟産道裂傷による出血、癒着胎盤による出血、弛緩出血、羊水塞栓症である。

(2) 羊水塞栓症とは、羊水が母体血液に流入して、羊水成分が血管内を塞栓し、血流遮断ないし乏血流状態にして、その血管支配臓器に機能障害をもたらす疾患をいう。

(3) 病理解剖学上、塞栓を構成する成分は、①胎児皮膚由来の偏平上皮細胞、②毳毛、③胎脂由来の脂肪、④胎児消化管由来のムチン、⑤胎便、⑥白血球・血小板・フィブリン塊などである。

これらの羊水成分が最も多く見られる部位は肺で、その他、心筋内血管、腸血管、肝腎血管、脾、副腎、肝嚢、小腸、下垂体血管などで見られる。

羊水成分によって塞栓された臓器は、肺高血圧症、心筋梗塞、脳軟化、腎機能不全などの障害が生じる。

子宮に関してみると、子宮下部の破裂、子宮筋層の血管内あるいは旁結合織の血管、広靱帯内血管、さらに胎盤辺縁や辺縁静脈洞の羊膜と絨毛膜の間の胎児由来の扁平上皮細胞が存在する場合がある。

(4) 羊水塞栓症の症状は、母体循環血流中に羊水が流入してから、時間の経過とともに、①急性ショック期、②出血傾向期、③乏尿期に移行する。

本症の典型的な場合、悪心、嘔吐、咽小、頻脈、血圧下降、顔面蒼白、悪寒戦慄、痙攣、不穏状態、呼吸困難、チアノーゼ、ショックなどが見られる。

DIC合併率は四〇ないし七〇パーセントといわれる。

(5) 本症の診断は死後剖検によって明らかになることがあり、生存中に本症であるとの確定判断を下すのは現実的には不可能に近く、検査をしても結果を知るまで時間的余裕がないのが実際であり、診断は臨床症状によることが多い。

最近は、剖検によらずに、生前あるいは死後直後、右心、下大動脈、子宮静脈のスミアから羊水、胎児成分を証明する方法が行われているが、未だ一般的な方法でない。

わが国における本症による死亡例は、初発症状から一時間以内に三六パーセント、一ないし一〇時間内に四三パーセント、一〇ないし一〇〇時間内に二二パーセントである。

(6) 本症の発生頻度は、成書等によると二万ないし三万件の分娩について一例とも言われ、また、一旦発症すると母体死亡率が八〇パーセント程度に達するとも言われるが、いずれも確実なことは分かっていない疾患である。

(二)  鈴木鑑定及び鈴木証言によると、鈴木医師は、前記の京子の症状及び経過は羊水塞栓症の典型的なそれと符合し、京子は羊水塞栓症に陥ったものと判断している。

京子は、午後五時一五分、急性ショック症状を示し、約三時間後の午後八時二〇分に心臓が一旦停止し、その後蘇生したものの意識を回復することなく、二月一五日には脳死に近い状態になり、同月一七日死亡している。

京子は初発症状から三時間余で重篤な症状(心停止)に陥ったことは、羊水塞栓症の経過に符合するといえる。

もっとも、羊水塞栓症において、動脈が非常に強く塞栓されると、酸素分圧が下がってくるものであるが、京子は、子宮摘出手術後の午後一一時三五分、酸素分圧が上がっている(乙第一号証)点で羊水塞栓症の典型症状とは異なる経過をたどっている。

しかし、本件では、挿管のうえ酸素を吸入するなど人為的な措置を講じており、したがって、右酸素分圧の値から京子に羊水塞栓症が発症していないということはできない。

なお、塞栓は、全臓器に生じる可能性があり、仮に肺動脈に塞栓がないとしても、羊水塞栓症でないと断定できない。

DICは、前記のとおり、軟産道裂傷、癒着胎盤、弛緩出血による大量出血によって生じることもあるが、本件では午後五時一五分までの出血量が八〇〇ミリリットル程度であるから、右疾患によって本件のような重篤なショック状態を生じ、DICに移行することは希有である。

したがって、軟産道裂傷、癒着胎盤、弛緩出血があるとしても、これらだけで前記のような症状は発生しないというべきであり、京子が羊水塞栓症に罹患していたと判断して初めて本件経過を説明できる。

ただし、これらの症状が羊水塞栓症と無関係であるとは限らない。京子が高年初産婦であることに加え、子宮収縮剤の使用、軟産道裂傷などによって、基礎疾患として羊水塞栓症が生じ、これに、癒着胎盤、弛緩出血が加わって、京子の症状を悪化させたことが十分に考えられる(鈴木鑑定、鈴木証言)。

他方、原告側から提出されている田中意見(甲第五号証)も、出血量八〇〇ミリリットルでは重症度のショックに陥ることは考えにくいとしたうえで、現実に生じたショック状態を説明するため、①出血量測定の誤り、②特異体質、③合併症の存在、④腹腔内や後腹膜内への出血の可能性を挙げ、京子の症状は出血性ショックであると判断している。しかし、①は前記説示のとおりこれを認めることはできず、②ないし④もそれらの事実について何ら立証されておらず、説得力を有しない。他に、鈴木意見以上に本件経過を合理的に説明する証拠や鈴木意見を否定するに足りる証拠は提出されていない。

(三)  本件では京子について剖検がなされておらず、羊水塞栓症自体希有な症例であり、必ずしも十分に解明されていないこともあって、病理学的には断定できないものの、本件経過を最も合理的に説明しうるのは鈴木意見のとおりである以上、京子は羊水塞栓症に罹患していたと認めるのが相当であって、右認定を覆すに足りる証拠はない。

3  被告林らの過失行為と京子の死亡との間の因果関係について

(一) 前記説示のとおり、羊水塞栓症が生じるとその八〇パーセントは死亡するとされており、京子の死因について複合的な要因(たとえば弛緩出血)があるとしても、基礎疾患である羊水塞栓症を治療できなければ救命できないと認められる。

右状況のもとでは、たとえ、被告林らが十分な治療をしていたとしても、京子の死を回避することは困難といわざるをえない。したがって、被告林らの過失行為と京子の死亡との間に相当因果関係を認めることはできない。

(二)  なお、本件は、因果関係の割合的認定になじむ事案でなく、右割合的認定をすべきであるとする原告らの主張を採用することはできない。

4  以上のとおり、被告林らの過失行為と京子の死亡との間に因果関係は認められないから、右因果関係を前提とする損害賠償請求は、その他の点を検討するまでもなく理由がない。

五  適切な治療を受ける権利の侵害に基づく損害賠償義務について

1 人の生命を預かる医師ないし医療機関は、診療契約を締結した患者に対し、医療行為の性質上、治療の成功という結果までを保障することはできないとしても、最善を尽くし、誠実に治療を施すべき債務を負っているというべきである。

そして、およそ死亡の結果発生を回避できない場合であっても、患者のために医療水準に則った適切な治療に当たるように努める義務を負っており、右義務に反した診療をしたときは、これによって生じた患者の損害を賠償する責任を負っているというべきである。

2 本件では、被告林らの過失と京子の死亡との間には、相当因果関係が認められないことは、前記説示のとおりである。

しかし、この場合であっても、京子は、被告法人との診療契約に基づき、被告らから適切な治療を受けることを期待できる地位ないし権利を取得しているから、被告らが、右義務に違反することにより、京子ないし原告らの期待を侵害した場合には、それによる損害を賠償する責任を負うというべきである。

京子に対する輸血は、本来、輸血すべき時間と対比して、少なくとも、三〇分ないし一時間の遅れを生じており、また、輸液の種類及び量が適切でなかったなどの過失が認められる。

被告林らの治療行為は、分娩後の異常出血、羊水塞栓により、緊急事態に陥ることが予測しえた京子に対するものとしては、杜撰なものであったといわざるを得ない。京子の死因の中心的地位を占める羊水塞栓については予後は極めて不良であり、適切な治療を受けたとしても、延命可能性は低いと言わざるをえないが、それでも絶無とまではいえない。京子の症状が重大なものであったことも考慮すると、被告林らの過失は看過することはできず、京子の適切な治療を受ける権利を侵害したものと認めるのが相当である。これにより京子が陥った精神的損害に対する慰藉料は二〇〇万円が相当である。

原告らは、京子から、右損害賠償請求権をそれぞれ法定相続分である二分の一の割合で相続したものというべきである(原告ら一名当たり一〇〇万円)。なお、原告らの固有の損害は、右慰藉料の支払によって填補されるというべきである。

3  弁護士費用 三〇万円

本件訴訟の事案の内容、難易度、認容額その他一切の事情を考慮すると、本件不法行為と相当因果関係にある弁護士費用は合計三〇万円(原告ら一名当たり一五万円)と認めるのが相当である。

したがって、京子の適切な治療を受ける権利が侵害されたことによる原告らの損害は、原告ら一名当たり一一五万円である。

六  結語

以上のとおり、原告らの請求は、京子に対し適切な治療行為を尽くしていなかったことによる損害として被告らに対し各一一五万円の支払を求める限度で理由があるから、その範囲でこれを認容し、その余は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき、民訴法八九条、九二条、九三条一項本文を適用し、仮執行の宣言は相当でないから付さないこととして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官林醇 裁判官亀井宏寿 裁判官桂木正樹)

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